毎年、終戦記念日近くになるとテレビで放送され、多くの人々に感動と悲しみをもたらすアニメーション映画『火垂るの墓』。
この作品は、戦時中の兄妹の過酷な運命を描き、「戦争の悲惨さ」を強く訴えかけるものとして、広く認識されています。しかし、高畑勲監督は、この映画を通じて「戦争反対」というメッセージを直接的に伝えることだけを意図していたわけではありません。むしろ、観客に感情的な涙を流させるのではなく、作品の奥に隠された様々なテーマについて深く「考えさせる」ことを目的としていました。
この記事では、アニメーション評論家である岡田斗司夫氏の分析を基に、高畑勲監督が『火垂るの墓』に込めた真のメッセージ、そして作品に隠された衝撃的な深層テーマについて、多角的な視点から掘り下げていきます。
1. 冒頭5秒の衝撃:清太が囚われた「煉獄」とは
『火垂るの墓』は、神戸三宮駅構内で力尽きた主人公・清太が「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と語りかけるシーンから始まります。この冒頭の描写には、高畑監督の深い意図が隠されていると岡田斗司夫氏は指摘します。
清太の霊魂が、死にゆく自分を見つめる場面。その直前、カメラは現代の神戸三宮駅に存在する「灰皿」を一瞬だけ映し出します。これは、当時の時代背景とは明らかに異なる、現代的なデザインの灰皿です。このわずかなカットが示唆するのは、清太の霊魂が1988年の映画公開時、そしてそれ以降も、未だにあの場所に留まり、自身の過酷な最期を何度も「リプレイ」して苦しみ続けている、という解釈です。
「つまり、ホタルの墓は決して過去の話ではなくて、現在から始まってるんです。で、現在から始まってセタの霊はあの場に未だにとまっていて、自分の人生最後の3ヶ月間を何億回も何億回も何億回もリプレイして苦しんでるっていうお話だと。」
この解釈は、カトリック教会の教義における「煉獄」という概念と重なります。煉獄とは、天国にも地獄にも行けない魂が、苦痛によって罪を清められ、いずれ天国へ向かう場所のことです。清太は、自身の行動によって妹を死なせてしまった後悔と苦しみから解放されず、永久にその悲劇を繰り返す運命にある、と高畑監督は冒頭で暗示しているというのです。
高畑監督は、観客がこのわずかな手掛かりに気づき、作品の深層にあるテーマを「考える」ことを期待していたのかもしれません。しかし、多くの観客はこの導入部の意味を深く掘り下げることがなく、作品全体を単なる悲劇として受け止めてしまいがちです。
2. 高畑勲監督の真意:なぜ観客を「泣かせようとしない」のか
高畑勲監督は、自身の作品で観客を「泣かせたり、感動させたりするつもりは全くない」と公言していました。これは、彼が「母をたずねて三千里」の企画書に「我々はお涙を作るつもりは全くない」と記していたことからも明らかです。
では、なぜ多くの人が『火垂るの墓』を見て涙するのでしょうか。その理由の一つに、ロシアの映画監督レフ・クレショフが提唱した「クレシオフ効果」が挙げられます。
クレシオフ効果とは、無表情な俳優の顔の映像に、別の映像(例:食べ物、死体など)を交互に見せることで、観客がその顔に悲しみや食欲、欲望といった特定の感情を投影してしまう心理効果のことです。高畑監督は、清太が無表情であるシーンを意図的に描き、観客がそこに「悲しみを抑え込んでいる」といった感情を勝手に読み取ることを狙っていたというのです。
宮崎駿監督の作品が、キャラクターの表情やセリフで感情を明確に表現し、観客を作品に「没入」させる「エンターテイメント」であるのに対し、高畑監督は、観客を「作品に没入させるのではなく、少し引いたところから我を忘れずに考えることができる視点」で物語を見せる「文芸」として作品を作っていたとされています。高畑監督は、主人公・清太を批判的な視点からも見てほしいと語り、観客に能動的な思考を促していたのです。
「ホタルの墓で私は観客を完全に作品に没入させるのではなく、少し引いたところから我を忘れずに考えることができる視点で作ったと。主人公を批判的にも見てもらいたい。」
しかし、高畑監督のこの意図は、多くの観客には伝わりにくかったようです。彼らは作品の悲惨さに感情移入し、涙を流すことに忙しく、俯瞰的な視点から物語を考察する機会を逃してしまっていた、と岡田氏は分析しています。
3. 見過ごされがちなディテールが語る真実
『火垂るの墓』には、高畑監督の深い意図が込められた、見過ごされがちなディテールが数多く存在します。その中でも特に衝撃的なのが、節子の死後の清太の行動です。
清太の行動に隠された人間性の喪失
節子が栄養失調で亡くなった直後、清太は節子のために用意した雑炊や、一口しか食べられなかったスイカを平らげています。一見、悲しみのあまりに気づかずに食べてしまったようにも見えますが、高畑監督は清太がこれらを意図的に食べたことを、食べかけの皿に残された箸やスプーンの配置で示唆しています。
岡田氏によると、これは清太が妹の死によって「人間性を失っている」状態を示していると解釈できます。悲しみに打ちひしがれているからこそ無表情なのではなく、人間性を失ったことで、妹の死を「世話をしなくていい」という安堵と捉え、食欲が湧いている、というのです。原作者の野坂昭如氏も、妹の死に「ほっとした」という感情があったことを高畑監督に語っており、その経験が作品にも反映されているとされます。
清太が無表情で節子の遺体と添い寝したり、仮想するシーンも、クレシオフ効果によって観客は「悲しみを必死に抑えている」と解釈しがちです。しかし、高畑監督の意図は、清太の「人間性の喪失」を描くことでした。観客が感情的に泣くことで、清太のこの「壊れた人間性」を見過ごしてしまうという、皮肉な構造が作品には存在しているのです。
「死は美しく、生は醜い」という高畑のテーマ
この「人間性の喪失」というテーマは、清太が母親と節子の死に様を異なる形で受け止める描写にも表れています。
- 母親の死: 空襲で大怪我を負い、蛆が湧くほど変わり果てた母親の遺体に対し、清太は一切触れようとせず、遠巻きに無表情で見つめるだけです。母親の遺骨も、清太は持ち歩かず、その場に捨てていきます。これは、「生き延びようと足掻いた母親の死」が、清太にとって「醜い死」として映ったことを示唆します。
- 節子の死: 一方、節子の死に際しては、清太は添い寝し、自らの手で美しく仮装を執り行います。そして、節子の小さな遺骨だけをドロップ缶に入れて大切に持ち歩き続けます。これは、「死ぬことに抵抗しなかった妹の死」が、清太にとって「美しい死」として受け止められたことを示しています。母親のように醜くなる前に焼いてあげたかった、という清太の心理が透けて見えます。
高畑監督が描こうとしたのは、「死ぬことへの抵抗をせず、美しく滅びていくこと」の美学であり、生きることへの執着が見せる醜さとの対比です。これは、フランス映画『禁じられた遊び』にも通じるテーマであり、無垢な子供たちが死と戯れる中で、その中にエロスを見出す、といった深遠な解釈が可能です。
4. タイトルに込められた暗示:蛍と死の連鎖
作品のタイトルにもなっている「蛍」は、単なる美しい存在として描かれているわけではありません。岡田氏の分析では、この作品における蛍は、まさに「死」を暗示する象徴として機能しています。
- 清太と節子が洞窟で暮らし始めた夜、上空を飛ぶ飛行機のわずかな点滅を、節子は「蛍みたいやね」と表現します。清太はそれが特攻機、つまり死にゆく飛行機であることを示唆します。この時点で、蛍は「死ぬ直前に最後の光を放つ存在」として位置づけられています。
- 清太が節子のために何十匹もの蛍を捕まえてきた翌朝、それらの蛍はすべて死骸となって転がっています。この描写は、蛍の短い命、そして彼らの境遇の儚さを直接的に示しています。
- さらに、神戸大空襲で降り注ぐ焼夷弾の火の粉は、「火が垂れる」と書いて「ホタル」と表現され、これもまた死と破壊の象徴です。
このように、『火垂るの墓』において光を放つ存在(蛍、飛行機、焼夷弾、そして清太と節子の命)は、すべてが死へと向かう運命と結びつけられています。高畑監督は、この美しくも残酷な対比を通して、「命が燃え尽きる瞬間こそが美しい」という独自の死生観を描き出そうとしたのではないでしょうか。
5. 禁断の関係性:清太と節子の「共依存」と「カニバリズム」
押井守監督は、著書『誰も語らなかったジブリ』の中で、『火垂るの墓』に「死とエロス、近親相姦」のテーマが強く暗示されていると指摘しています。これは多くの観客が感情的な涙で覆い隠してしまう部分であり、高畑監督の緻密な演出がもたらす、より深い「不快感」でもあります。
清太の「妄想」が描く歪んだ関係
作中には、清太が見ていないはずの節子の行動が描かれるシーンがあります。例えば、節子が破れた傘で遊んだり、洗面器をかぶって遊んだりする場面、そして針仕事をするシーンなどです。岡田氏の分析では、これらはすべて清太の「妄想」の中の出来事だとされます。
特に節子が針仕事をするシーンは、清太の願望が投影されたものとして解釈されます。清太は、母親を失った今、節子に母親のような役割(あるいは恋人のような存在)を求めていたというのです。現実にはありえない、幼い節子の「健気さ」は、清太の願望と結びついた「歪んだ関係性」の表れと捉えることができます。
ドロップ缶が示唆する「カニバリズム」
最も衝撃的な解釈の一つに、清太が持ち歩くドロップ缶の中の骨が、「カニバリズム(人肉食)」を暗示しているというものがあります。
作中で、清太が節子の遺骨をドロップ缶に収め、その後、そのドロップ缶をなめているシーンが描かれます。これは直接的に骨を食べる描写ではありませんが、その構図や文脈から、深く愛するがゆえに相手の存在を体に取り込みたいという、根源的な欲求としてのカニバリズムのメタファーとして解釈できると岡田氏は語ります。
原作者の野坂昭如氏も、高畑監督との対談で、自身の妹に対し「食欲を感じたことがある」と話したことが、この描写に繋がっていると述べています。高畑監督は、こうした人間の最も根深い、ある種「禁断」とも言える欲望や関係性を、あえて曖昧に、しかし確実に作品の中に描き込んでいるのです。
6. 清太の死の真相:「真獣」という日本の悲劇
清太の死は、単なる餓死というだけでなく、さらに深い意味が込められていると岡田氏は指摘します。
「真獣」としての死
清太と節子の関係は、単なる兄弟愛を超え、互いに強く依存し、外部との社会的な繋がりを断絶していく「共依存」の様相を呈しています。そして、二人の最期は、日本の伝統的な概念である「真獣(心中)」として解釈できるというのです。
真獣とは、相思相愛の男女が共に死ぬことで、現世では叶わなかった結びつきを死後の世界で成就させようとするものです。江戸時代には真獣が大流行し、幕府がこれを禁止するほどでした。特定の「犯人」を作るのではなく、あらゆる要素が重なり合って「死ぬしかない」状況へと追い込まれ、死によって永遠に結ばれる――これが真獣の根底にあるコンセプトです。
『火垂るの墓』において、清太と節子はまさにこの真獣のフォーマットに当てはまると考えられます。節子が、清太が食料を買いに行こうとするのを止め、「お兄ちゃん、ここにいて」と訴えるシーンは、単なる幼い寂しさだけでなく、高畑監督の意図としては「一緒に死んでほしい」という真獣への誘いとして描かれているというのです。節子は病気によって清太を縛り付け、社会的な活動をさせず、結果として二人で死への道を歩んでいきます。
節子による「取り殺し」
さらに衝撃的なのは、清太の死が、節子による「取り殺し」として描かれているという解釈です。
冒頭のシーンで、死んだ清太のところへ節子の幽霊が駆け寄ろうとしますが、背後から生きていた頃の清太の幽霊に止められます。そして、二人は手を取り合って画面の左へと消えていき、タイトルが現れるのです。
このシーンは、節子が清太が「約束通り」死んでくれるかどうかを見張っていたことを示唆しています。日本の古典的な怪談には、真獣しようとして男が死にきれず、女だけが死んでしまい、女が化けて出て男を取り殺す、という話が数多く存在します。これは、真獣の約束を果たさなかった男に対する女の怨念、あるいは「約束の成就」としての取り殺しです。
清太が母親の遺骨は捨てたのに、節子の遺骨だけは大切に持ち歩き続けたことが、節子の霊に囚われ続ける理由になった、と解釈することもできます。そして、節子が意識を失った時だけ、清太がカメラ(観客)に目線を送り、「僕は今、煉獄にいて、節子に取り殺され続けています」と訴えかけている、という見方もできると岡田氏は語ります。
清太の死は、餓死という物理的な死だけでなく、精神的、あるいは宿命的な「真獣」の成就であり、節子との永遠の繋がりを意味するものであった、と高畑監督は描きたかったのではないでしょうか。
7. 高畑勲の挑戦:時代を超えて「考えさせる」普遍的な芸術
高畑勲監督は、宮崎駿監督との関係性において、常に自身の芸術的信念を貫きました。宮崎監督が「エンターテイメント」としての作品作り、すなわち観客に喜びや感動を与え、共感させることを追求したのに対し、高畑監督は「文芸」として、観客に深く「考えさせる」作品を目指しました。
鈴木敏夫プロデューサーの証言によれば、宮崎監督は『火垂るの墓』に深く衝撃を受け、そのテーマ性に応えるべく、自身の作品『風立ちぬ』で「自分の生き方を貫くために愛する人を犠牲にし、煉獄に囚われる男」を描いたとされます。宮崎監督は、高畑監督の作品がもたらす深い問いかけに対し、自身の作品で答えを出そうとしていた、というのです。
高畑監督は、「泣かせず、考えさせる」という自身の芸術を貫くために、時に観客に「甘えすぎている」と岡田氏は評価します。細部にまで意図を込めながらも、それを直接的には語らず、観客が自ら気づき、考察することを求める姿勢は、多くの人にとっては難解に映るかもしれません。
しかし、高畑監督は、一時的な感動や共感だけでなく、100年後にも色褪せない普遍的なテーマを追求していました。『火垂るの墓』は、単なる戦争の悲劇ではなく、人間の本質、生と死、愛と狂気、そして社会との関係性といった、深く、時に不快な問いかけを私たちに投げかけ続けています。
この作品は、観客が感情的に「かわいそう」と泣いて思考を停止するのではなく、「なぜこんなことになったのか」「清太の行動は何を意味するのか」といった問いを自らに問いかけ続けることで、その真価を発揮するでしょう。
結論:『火垂るの墓』を再見する意義
『火垂るの墓』は、単なる「戦争の悲劇」という一言では片付けられない、多層的で深遠なテーマを内包した作品です。高畑勲監督は、観客に感情的な涙を流させるのではなく、作品の奥に隠された「煉獄」「人間性の喪失」「死の美学」「真獣」「カニバリズム」といった衝撃的なメッセージについて深く「考えさせる」ことを意図していました。
この記事で紹介した様々な解釈は、もしかしたらあなたの『火垂るの墓』に対する印象を大きく変えるかもしれません。しかし、これこそが高畑監督が私たちに求めた「思考のプロセス」なのです。作品の「悲惨さ」という表面的な感情を超えて、その深層にある「なぜ」を問い続けることで、私たちは人間という存在、そして歴史の本質について、より深く、多角的に向き合うことができるでしょう。
もし『火垂るの墓』を再見する機会があれば、ぜひこの記事で紹介した視点を思い出し、高畑勲監督の真の意図に触れてみてください。きっと、新たな発見と、より深い洞察が得られるはずです。

